Facebook上で井庭くん(@takashiiba)に問いかけたら、面白い議論ができたのでここに残しておく:
長谷川 敦士たしかこの間 Takashi Ibaくんがつぶやいていた、クックパッドのユーザー参加アーキテクチャのWikipedia型との違いがずっと気になっている。
Takashi Iba どう思う?
長谷川 敦士 親情報(レシピ)に対して、子情報(つくれぽ)という関係になっちゃうと、そこで主従ができちゃうんだよね。つくれぽのその先になにがつながるか、があり得るのかを考えてる。つくれぽ自体を参照して作る人もでてもいいと思うし、本歌取としての創造を推奨する環境になっていくともっと面白いと思ってる。
Takashi Iba そうだね。そこは、まだまだいろいろ可能性があると思う。僕がいいたかったことは2つ。
Takashi Iba (1)単なるコメントではなく、つくるという行為(その証明としての写真)を伴うものであるため、ネガティブで嘲笑的なコメントがつけられず、炎上しにくい。
Takashi Iba (2)Wikipediaでは、ひとつの概念・用語に、ひとつの記事が割り当てられる唯一性が追求される。Cookpadでは、各自が自分の視点から投稿するので、同じような種類のものが多数存在することになる。例えば、カレーライスの記事は、(ひとつの言語のなかでは)Wikipediaではひとつしか存在しないが、Cookpadではたくさんのレシピが存在する。
Takashi Iba 「パターンの種」を投稿するときには、他の人の事例などを総合して考えなくてよい、Cookpad型よいと思う。そして、それを抽象化・一般化して集約していくときには、Wikipedia型の辞書になっていくのだろう、というイメージです。
長谷川 敦士 なるほど、2つめの観点は面白いね。ひとつの概念(カレー)に対しての実現例はさまざまなのが当然である、ということがちゃんと実現されている。
Takashi Iba そうそう。そこ重要でしょ。(1)の方は、昨日の「つくる」と「つかう」が混ざるという話につながる。
長谷川 敦士 概念(=抽象化・一般化)は、A)誰のために必要なのか(目的)、B)誰がやるのか(手段)、を改めて問い直すと、実は「みんなのため」ではないのかもしれない。
長谷川 敦士 普通、「カレーといえば母親のカレー」というような感覚の方が自然だと思うし。
長谷川 敦士 1)の行為を持っての参加、が場を建設的にする、というは完全に同意。そういうアーキテクチャを用意するということ自体が、場のデザインだと思う。