元来「伝えたい」は「伝わらない」を前提にしていた。旅行に行って絵はがきを出すことは、旅先でいっしょに来れていない人にその思いをちょっとだけでも伝えるためだったはずだ。ケータイムービーのCMを見ていて、通話料が安いので旅先でムービーを送り続けていたら夜になっていた、というネタがあった。これは笑い事ではなくて本当に起きている。ビデオやデジカメ等の記録メディアの発達によって、だれしもが簡単に記録を残せるようになった。携帯電話やケータイメールの発達でいつでもどこでも連絡がとれるようになった。だと今度はどれだけ人に伝えればいいの?という問題につきあたる。携帯電話でいつでも連絡がとれるということは、連絡がこないのは連絡したくないから。ビデオで映像を残せるのに残さないのは残したくないから。そう受け取られても仕方がない。でも、そこには連絡をとるコストは入っていない。旅先でちょっと絵はがきを書くのと、ビデオカメラを準備して場所取りをしてテープを買って予備のバッテリーを準備してビデオを残すのとではわけがちがう。そうやって、いまや運動会はビデオを撮る場と化しているし、観光地ではみんなとりつかれたように記念写真を撮っている。そこではファインダーのなかからしか風景を見ていない。記録することが目的になってしまっている。
「自分の時間を削って」記録を残す。
もっと自分の身になる、実体験のほうを重視しなければならんと思うんだけど、実体験と記録の比率を決める基準ってのは難しいと思う。
コミュニケーションの欲求とできてしまうこと
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