言語と順応

インフォメーションアーキテクトのための年に1回の会合であるIA Summit参加のためにバンクーバーに訪れて今日で5日目。去年に引き続き日本からの参加者は僕ひとりで、当然会話は全部英語なのだが、帰る日になってようやく口が英語に馴染んできた。

もともと英語はきちんとしゃべれるわけではないのだが、初日2日目と過ごすにあたり、それにしてもあまりにもしゃべれなくなっていて自分でも驚いた。正直言って驚きを通り越してかなり落ち込んだ。去年と比較してはおろか、学生時代よりもしゃべれなくなっていたのだ。

専門的な会話というわけではなく、普通の店での会話やホテルの人との会話も滞る。サミット中も昼飯や晩飯時の会話も調子に乗れなくて入っていけない。

やはり普段話していないとだめなのか、でも英語漬けではAAAなのになあ、おかしいなあー、とか思いながら、自分のふがいなさに腹立たしくもなっていたのだが、会期の最終日になって急に口が動き出してきた。

この身体変化ははっきりと自分でも自覚できた。一昨日までと違い、ふつうに会話のペースに乗っていけるし、うまく言えない表現があっても、別の言い方を使ってみたり、相手が使っている表現をまねてしゃべってみたり、さっき誰かが使っていた表現だ、ってのがするすると口から出てくるようになった。これはおもしろい体験で、これまで口の方が思考の後追いだったのだ、だんだんと考えるより先に言葉として口から出てくるようになってくる。

そこで思うのはやはり言語は知識として獲得するのではなく、「身につける」ものだなあ、ということだ。専門的な話をするのであればある程度の語彙は最低限必要だとは思うが、まあ、生活に必要な語彙程度であれば生活しながら「拾って」いけばよい。逆にあたまで中途半端な単語や言い回しを覚えていても、実際の会話のシーンでは相手も「え?」となってしまい、これは自己満足にはなるかもしれないが会話にはならない。

会話の中で使われている単語や表現は、たぶん半分くらいは相手と同じようなことを繰り返しているのではないだろうか(以前誰かの研究で見たような気がした。確か池上研の橋本さんだったような気がするが)。半分まではいかないにせよ、会話は意味を伝えることのみならず、相手と「会話のムード」を共有することも主目的にあると思う。なので、いっしょにいる人同士だと特定の言い回しや文脈が成立し、そしてそれをお互いに共有できることで共同体意識も生まれる。

つくづく脳とは順応(この場合は適応か?)に向いているんだと実感しました。

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