オリンピックロゴ騒動に関連して、なぜかうちにもテレビ番組から取材依頼がきた。
デザインの現場での著作権管理についての状況を聞きたいという。
金曜の午後に月曜の放送の取材の依頼ってのも急なので、実現するかどうかは未定だが、一応論点を整理してみたので、blogにもあげておく。
今回の件、論点は3つと思っている。
1.オリンピックロゴの件と、トートバッグの件は文脈が別
個人的に佐野さんと直接の面識はないが、まず結果的に似てしまったオリンピックロゴと、手抜きでネットから画像を拾ってきたトートバッグとは全く文脈は異なる。
トートバッグについてはまったく弁護の余地はないが、これは察するにバイトに数を作らせて、よさげなものにOKを出した結果であろう。しかしながなら、佐野事務所への依頼は、誰が作ろうと佐野さんが責任を負う必要があり、その意味でパクリの責任は佐野さんのもとにある。この問題は、佐野さんの本人のコピーへの倫理観の問題というより、企業のノベルティデザインを軽視していたということである。
これに対して、オリンピックロゴは、もちろん真意は本人しかわからないものではあるが、「結果的に似ているものであった」ということであり人のものを剽窃したというものではないと思われる。もちろんインスピレーションの源は本人すらわかりえないものであるが、さすがに天下のオリンピックロゴに、ちょっとよさげなロゴを借りてきてちょいちょい、ということは考えがたい。本人も記者会見で述べていたり、あるいはちょっとグラフィックの知識がある人であれば理解できる、亀倉雄策の1964年のオリンピックのログへのリスペクトなどの要素を持った、オリジナルに導き出したものであろう。
この点において、「トートバッグにネット画像を持ってくる事務所なんだから、オリンピックロゴも盗作だろう」という論じ方はずれているといえよう。
2.なぜ画像のパクリはよくないか
ここは深い問題があり、改めて書きたいと思っているが、多少の誤解を恐れず単純化してしまえば、「ゲームのルールだから」ということになる。著作権が法律として成立したいきさつや、それが人類の創作の連続性をどうして止めてしまっているかという点については、クリエイティブコモンズについての書籍、たとえばドミニク・チェン氏の著作などを読んでいただくのがよいと思うが、そもそも人のものをまねしてはならない、というのはあまり自明な概念ではなく、人工的につくられた価値観である。
フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環/ドミニク・チェン
ビジネスという社会のゲームにおいて、著作者に排他的に便宜を図ろうというという意図でうまれた著作権が肥大した結果が現在の著作権制度であり、死後何年も保持されるなんて、すでに本人の意図とは別の力学によって動かされているといえよう。
その意味で、ここには善悪や倫理観ではなく、単にルール違反をしているという点において咎められるべきである。特に佐野氏のように広告業界という経済のゲームの上で勝負をしているのであればなおさらだ。
3.オリンピックロゴには問題はないのか
オリンピックロゴについては、別の軸で佐野さんには問われるべき責任はある。ここで提示されるロゴはすくなくともこれから2020年まで世界中で使われるものであり、日本のシンボルとなるべきものである。この役割を考えたときに、たとえそれが天啓によって生み出されたものであれ、類似のものが世にないかをチェックする義務はデザイナサイドにあると僕は考える。
もちろん、すべての著作物をチェックし尽くすことは不可能であるし、今回のベルギーの劇場のように商標登録されていなければなおさら発見はしにくいわけであるが、それにしても、佐野さんは記者会見において、デザイナとして、類似の意匠のチェックが行き届かなかったことについての責任に言及すべきであったのではなかろうか。
この点を考えたときに、記者会見で佐野さんが繰り返し述べた、オリジナルに生み出したものである、ということは、過程の説明をしているだけであり、弁明にははなっていない。
もちろん、コンペを行った委員会など運営母体がザルであったことはあらためて言うまでもないが、もともとそんなところに期待をしてもしょうがない話であり、プロのデザイナとして、自分が行ったデザインの結果にまで責任を負うべきという観点の問題となる。