現在一般にマックだろうとWinだろうとUNIXだろうとファイルシステムといえば階層型である。ぱっと思いつくだけでおかしなところは、
・アプリケーションとドキュメントが一緒に扱われている。
・複数のカテゴリにまたがる際には主と副(エイリアスとかショートカットとか言われる)になる
・置くときに場所を決めなければならない
・複数のアプリをまたがってつくる書類というのはあんまりない
というように、コンピュータシステムを前提にしないといろいろとへんなところがある。これらは必然というよりはオペレーションシステムが実行型アプリケーションとそのドキュメントファイルという構造を前提としているからであると言える。
これに対して人間側の都合でがんばろうとしたのが、アップルのOpenDocであり、MSのOMSであるわけだが、これらはうまくいっているとは言いがたい。
この理由はひとえにスタンダードの存在と普及率の問題であろう。
理想のファイルシステムがあっても、それが普及していなければインフラとしては使えない。自分一人で作業をするわけではないから、互換性がなければ「使えない」のだ。逆に言えば、互換性があって、普及しているものであれば、それ自体の生産性やクオリティはたんなる市場価値、競争優位性の問題となる。このベクトルの違いは興味深いのでまた別に扱うことにする。
理想のファイルシステムに関してはまた次回。
日別アーカイブ: 2003/12/07
教育とはなにか
いま仕事(ビジネス)と教育を両方やっている。研究は以前やっていたがいまはやっていない。
簡単に言ってしまうと全部仕事なんだろうけど、「仕事」は誰かが求めていることを探してそれを提供すること、「教育」とは誰かに対して何かを教えること、「研究」は自分で興味のあることをあるいは世の中が必要とすることを探求すること、と思っている。
教育は広い意味でビジネスにも位置づけられるだろう。趣味で教えているのでなければ別だけど。
最近教育プログラムを作っているが、枯れた分野のこと(物理とか古典経済学とか)といままさに発展していること(インタラクティブメディアとか社会学とか)、静的なこと(公式とか)と動的なこと(デザインとか)の対比と教え方の構造を考えている。動的なことは実習を通じて学んでいくであろう。静的なことは知識として講義を通じて学んでいくであろう。まずのこの関係をもっと整理する必要がある。
つぎにスタティックなこととといままさにかわりつつあることとを考える必要がある。
3年間講師をやって感じていることは、教育の一つのアプローチは「タスク設定」ではないかということだ。講義をやってある体系を伝えるということは、語り口の善し悪しはあるけれど、遠隔講義やテレビ講義でもいいと思う。あるいは人によっては本を読むだけでもいい。テレビでやっている「放送大学」を最近見ているが、さまざまな知識体系は、これだけで事足りる。
ただ、研究アプローチや、物事に取り組む際の向き合い方、はだれかと向き合いながらやりたい。
その時、講師が生徒に対して、その人の持てる力の105%くらいのところに課題を設定してあげて、それをやらせると、そのちょっと背伸びするくらいのところでいろいろと学べる。これが200%の課題だと手に負えないし、80%だと簡単すぎる。かけ算みたいなものだったら100%をいっぱいやらせて身に付かせるのだろう。これも100.2%くらいでちょっとづつあげていくのもいい。
相手に対して常に105%がなにかを判断して、それを提示できること。それが教師に求められる能力であると思う。そのためには、全体のビジョン、難易度のロードマップを考えることが必要となる。