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ユーザーエクスペリエンスデザイン

ユーザーエクスペリエンスデザインという言葉も多く聞かれるようになってきた。ユーザーインターフェイスやらユーザビリティと「ユーザー」が似ているので、議論になったりもしているが、根本的にユーザーエクスペリエンスはブランドといっしょで、結果的に得られるものであり、個別の施策ひとつひとつは構成要素ではあるけれどだからといってそれがユーザーエクスペリエンスかというと、あるケースではそうかもしれないが、普遍的観点で言えばちがうことになる。それは、ブランドが品質によって支えられていることもあれば、接客によって支えられていることもあれば、テレビCMに出てくるタレントによって支えられていることもあれば、あるいはそれらすべての組み合わせであることもあるようなもので、仕掛け側が意図しているものと、実際に顧客が感じている部分とがずれていることも含めてブランドとユーザーエクスペリエンスデザインは近いものだ。

ユーザーエクスペリエンスデザインの難しいところは、それが横断的なものであることに起因している。決して製品自体だけで実現できるものではなく、プロモーションやアフターサービス、説明書など、なにと相関しているかは結果論でしかわからない。Webデザインの界隈から流行りだしたのは、それがWebチャネルで完結するサービスデザインの分野において実現が容易だったからであって、決して次世代Webデザインがユーザーエクスペリエンスデザイナなわけではない。なので、ユーザーエクスペリエンスを考える際には、少なくとも企業内ではすべての部署を横断した、タブーなき議論が必要となる。

知られているようで知られていないユーザーエクスペリエンスデザインの起源、ドン・ノーマンの設立したAppleのユーザーエクスペリエンスラボはまさにこの横断的組織の走りであった。企業がある程度の規模になると、どうしても縦割りになることは規模の経済を実現するためには当然の帰結であるが、その横断的な問題解決のベクトルが「顧客の利用体験」に向いていたというのがユーザーエクスペリエンスデザインの本質である。この意味でも、ブランディングと近いことがわかると思う。

なので、ユーザーインターフェイスで解決しようが、プロモーションで解決しようが、その手段自体は結果でしかない。ポイントは問題を解決しようと考えている人が、その問題解決のフレームをできる限り大きくとることができるかどうかであって、その観点が持てるかどうかがデザイナーとしての閾値となる。

ユーザーエクスペリエンスデザインにおいて、問題・解決策の発見と、その実現とは、まったく別の問題といっていいほど異なっている。問題の発見は、どちらかというと観点の問題であり、センスの問題ではないが、その体験にどれだけ興味があるかどうかに依存しているという意味で、身を置いてみないとまず発見はできない。そして、問題を認識できた時点で、その解決はわりと自明であり、あとはどうやってやるか、他の解決策との共存をどうするか、というテクニカルな問題に焦点は移る。

僕は車がわりと好きな方で、もちろん運転も好きだが、車内の情報システムも興味範囲であるので、昔から自分への投資と言い訳をしてさまざまなナビを試したり、実験を繰り返してきた。しかしながら、こういった仕事をしていることもあり、ある程度テクノロジーリテラシーもあるので、実はどういったインターフェイスでもそこそこ使いこなして、問題がない状態にしてしまう。一般に多少使いにくいカーナビであっても、極論を言えばGPSで現在地がわかる機能に問題がなければあとはこちらの工夫次第でなんとかなってしまう。その際には、そのシステムが持っている処理体系の構造をはやいところ把握してしまい、機器の持っているクセをこちらが吸収する、というテクニックが必要となるが、まあこれはいわゆるITリテラシーがそこそこある、と言われている人が持っている技術といえる。

このように、そこそこ使いこなせてしまうと、逆に言えば問題がそこにはないので、問題の発見ができないことになる。禅問答のような話であるが、そういう理由で世の多くの「使いにくい」やら「ひどい体験」は放置され、そもそも問題と認識されていないため、企業側からクレームと認識されてしまっている。

これは相対的な問題であり、まあそもそもデザインというのは問題解決なので相対的でしかあり得ないのだが、世の期待値に対して、2歩先ではなく、0.5歩先を行った解決策が一番効くゆえんでもある。

僕は昔から自分エスノグラフィーと称してやったことのない体験の感想や、新しい観点を持てた瞬間を記録するようにしている。これは「初めて知る」という貴重な瞬間は二度とやってこないので、Evernoteだろうとメモ帳だろうとなんでもよいので残しておくとかなり役に立つ。余談になるが、6年くらいつけていた自動車内のメモはカーナビのアーキテクチャデザインを行う際にものすごく役に立った。

最近やり始めたことに、「ユーザーエクスペリエンスプロトタイピング」がある。これは、自分に新しいユーザーエクスペリエンスを体験させてみて、どう思うかを自分で理解するもので、IDEOメソッドカードでも確か似たようなものがあった。最も直近で効果を実感したプロトタイピングはカーナビの目的地設定。僕の車のナビは、まあ最近の機種ではあるのだが、基本的にはスタンドアローンで、クラウド上にアカウントがあったり、PCから目的設定できたりということはできない。そういったあたりは、単に企業側がその部分にコストをかけた場合の回収が見込めていないからやっていないだけの話なので、そのうち実現されるだろうと思っているので危惧していないのだが、問題は「実現されたそれらの技術をどうやって使うか」については、実現されていない技術故に試してみたり、評価したり、ましてや改善したりができないところにある。なので、自分で「あったらいい機能」を勝手に実現して、改善を図り、来るべき時代(でそういった設計を依頼される事態)に備えておく必要がある。

一般的には、カーナビの目的地設定は、車に乗車して、かちかちと設定を行う。僕は仕事でもわりと車を使うので、平日の日中に名称、住所、電話番号、地図などから目的地設定をして、高速を使うべきかどうか、どっちのルートが渋滞しているか、などを確認し、移動を行う事態が週に数回はある。車に乗り込む際に目的地は正確にわかっている必要があるので、スケジューラに住所まで入れておいたり、携帯に住所や電話番号を転送したり、ということをよくやっていた。

これを、車を降りる際に次に乗ったときに行く目的地を設定する、というやりかたに変えてみた。これは、「車に乗った瞬間にナビは目的地を目指している」という状況をシミュレーションするためにやっていることで、自分で降りる際にちまちまと入力している行為は裏方作業なので忘れておくかなかったことにしておく。車に乗り込んで、エンジンをかけて、目的地へ向かうときはたいてい急いでいて、かつプロジェクトのメンバーといっしょだったりすると、プロジェクトの話をしたり、ぎりぎりまで議論をしたりと忙しい。そして、僕の会社は恵比寿にあるが、目的地までのルートによって恵比寿駅側に向かおうか、ガーデンプレイス側に向かおうかと、向きがまったく逆になるので、ナビが設定されていないと、最初の角を曲がれなくなってしまう(そこまでの状況はまれだけど)。この状況の中で目的地が設定されていて、さすがにVICSの渋滞情報はエンジンをかけてから取得するからすぐには反映されないのだが(これもわりと致命的な仕様だとは思うが)、到着時間やルートが即座に出てくると大変快適であり、そして数回その状況になれてしまうと、もうそうでないときにはいらっとしてしまうまでになってしまった。

これ自体は他愛ないことであり、もう実現できていることなのかもしれないが、ポイントは「その状況になれてしまった自分」がどう変わっているかを観察できるところになる。こればかりは実現されていることを知っただけではなかなか想像することが難しい。難しい故にプロトタイピングが必要なのだが、しかしながらプロトタイピングを発動しようと考えるためには、問題の存在を想像しなければならない。これはiPodが音質ではなく、CDからのリッピングという「連携」を問題の本質ととらえたこととにも言える。

結局のところ、優れたユーザーエクスペリエンスは創造力の問題なのだ。問題のフレームを自分で設定し、その問題が解決できることを有意義と見なす感覚を持てること、このことがデザイナの本質であり、その観点を持ちたいが故に個別の技術の習熟をめざす必要がある。と、僕は考えている。

言語獲得過程と無の概念

あけましておめでとうございます。

さて、昨年は二人目の子供(女児)が生まれ、家族4人でわいわいやっています。
長女は、大晦日に3才の誕生日を迎え、いっちょうまえに会話が成立するようになってきました。

そういった中で興味深いのが、言葉の誤用です。
たいていの誤用は面倒でも言い直してあげることで驚くほど精度が上がっていくのですが、なかなか説明が難しいのが「無」の概念伝達です。

具体的には、「なんでもない」を「誰もない」とよく間違えます(本人はまだ間違えたことに気付いていない)。
「どうしたの?」
「誰もいない」
という会話が日に数回は交わされます。

まだ、抽象概念はわかってるのかわかっていないのかという状態なのですが、
「そういう時は、『なんでもない』って言うんだよ。」って言っていますが、本人的にはぴんと来ていない様子。
ニコニコしながら「誰もいな〜い」って応えます。

ちょっと近い概念で、「謝る」概念もわかっているのどうか不安です。
失敗をしたときに「ごめんごめーん」というクセはついたのですが、けっこう楽しそうにごめんをいっているので果たして「申し訳ない」という概念を持っているのかどうか。

と、そこで思うのは果たして「申し訳ない」という概念とはなんなのか。
自分のやったことを反省して、自責の念を持てばよいのか?そうだっけ?

ちなみに、デジタル機器周りでは、iPadやiPhoneは文字入力以外は難なく使いこなし、最近ではMacでのKidPixも使えるようになりました(マウス操作)。
まだ文字が読めないのでWiiは難しいのですが(Wiiではコントローラーのストラップを腕に通しなさい、というインストラクションのところは理解しているらしく、その表示が出る度に得意げに「ここに通すのよ」って周りの人に教えてあげています)、普通のコントローラー、Wii Fitコントローラーといった無線のコントローラーで接続するあたりは当然のように理解しています(むしろ有線のコントローラーも外そうとしたりします)。

また、完全に映像コンテンツはオンデマンドなものだと思っているようで、テレビを見ているときにトイレやお風呂に立つタイミングで「ちょっと止めておいて」とさも当然のように言っています。
まあ、ライブ放送以外、リアルタイムストリーミングであることのほうが理解が難しいんだろうな。

そんな感じですが、今年もよろしくお願いします。

子供のためのタイポグラフィ

気がつくと2011年も半分終わり、そしてblogの書き込みも今年二回目という状況。

この春は会社の合併、年度末にかかるプロジェクトとblogに考えをまとめるゆとりを持てなかった(ネタ帳にはいろいろたまったのだが)。

さて、気軽な話題で子供のためのタイポグラフィ。こんなポストを最近見た。

Effective Use of Typography in Applications for Children
http://www.uxmatters.com/mt/archives/2011/06/effective-use-of-typography-in-applications-for-children-3.php

3歳から10歳の子供に向けたタイポグラフィの考察。

セリフ/サンセリフの可読性、子供の許容性(tolerance)の観点、スタイル、読みやすさ、一貫性、レイアウトなどについて考察を行っている。

最終的はこのコラムでは、タイポグラフィの問題はグラフィックの問題としてとらえられ、どういった体験(UX)を構築するか、という課題としてまとめている。

昨年から、コンセント社としてもグループ会社(AZホールディングス)としてデジタル教科書教材協議会(DiTT)理事として活動を行い、教科書/教材におけるデザインの実態を知ることができた。

現在のところ、(教科書に限った話ではないが)このドメインにおける「伝わる」ためのデザインエンジニアリングはまだ課題化すらされていない。

たぶん、やられていないってことはないと思うので、どなたかそういった分野をご存じの方いたら教えてください。

ところで、関係ないかもしれないが、最近感動している絵本(絵本はタイポグラフィとグラフィックが高度に融合された、すごいアートだと最近感じている)が、せなけいこさんの一連の作品。

せなけいこ
http://ja.wikipedia.org/wiki/せなけいこ

彼女の作品のすごいのは、その文章部分の洗練のされ方。
(ストーリーもかなりシュールなのだが)

子供にベッドで読み聞かせるとき、通常同じ絵本を何度も読んで、とせがまれる。

通常は何度も読んでいると表現の冗長さや、言い回しの無駄(いっしょか)に気付くのだが、彼女の絵本は何度も読めば読むほど、その短いセンテンスごとに必要にして十分なメッセージが込められていることがわかる。


きれいなはこ (あーんあんの絵本 4)

ほんのちょっとだけ怖い話なので子供も興味を持つし、親も何度も読むと文章を噛みしめられるという一石二鳥のシリーズなのでおすすめです。

ネットワークメディア論

思うところあり、昨年から武蔵美視デにて講義を開始した。

で、今年(来年度)から、多摩美情デにても講義を持つこととなった。

これまで講義では、情報デザインやインターフェイスデザインのプロセスや方法論を教えていたが、今回はネットワークメディア論という若干これまでと異なったテーマ。

せっかくなので、これまでのメディアを概観できるような授業にしたいと思っている。

シラバスに掲載した授業予定は以下。

ご意見、ご要望があったら教えてください。

– 1.  ガイダンスと授業ロードマップ
– 2.  Webサイト:メディア的特徴
– 3.  ニコニコ動画と2ch:参加型メディアにおける編集の意義
– 4.  WikiとWikipedia:コラボレーション
– 5.  情報整理の限界
– 6.  blog:個人ジャーナリズム、あるいは落書き、そしてセラピー
– 7.  YouTube:メディアとインセンティブ
– 8.  ソーシャルメディア:はたしてメディアなのか
– 9.  インターネット生態系:生態系としての考え方
– 10.  twitter:制約を求めるマインド
– 11.  ネトゲ:新しいコミュニケーション
– 12.  「クラウド」とはなにか:ユビキタスの本当の意味
– 13.  電子書籍の登場:新しいものなのか
– 14.  Creative Commonsという考え方
– 15.  あらためて「従来のメディア」とは何であったかを考える

unconference

ひさびさの書き込み。

10月29日、30日に開催された、東京大学・知の構造化センター主催の「PingPongプロジェクトシンポジウム」に参加してきた。

知の構造化センター・シンポジウム開催
http://blog.pingpong.ne.jp/?p=370

このシンポジウムでは「動く地図を作る」という刺激的なタイトルで、初日がPOD1からPOD3と題されたテーマ講演、二日目がunconferenceの形式で実施された。

POD1では、知の構造の理解=形の理解、ではなく、地図の作り方自体の理解である、というikeg先生の基調講演に始まり、情報の視覚化、ユーザー体験デザイン、インターフェイス、テクノロジーを活用した社会、といった分野に対して新しい視点を与えるきっかけが数多く得られた。

また、サイエンスとしても、ikeg先生の複雑系の理解を発展させた、社会システム理解のあたらしいかたちを考えるきっかけになると思う。

さて本題は、unconference。

先日のNew Context Conferenceでもunconferenceは開催されていたが、残念ながら初日のパネルディスカッションしか参加できなかったので初参加となった。

Unconference – Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Unconference

UnconferenceとはTim O’Rellyが、既存のカンファレンスでのセミナーやワークショップが予定調和的になっていることへのアンチテーゼとして生み出したセッション運営の形式。

特徴として、セッションの枠だけ決めておいて、当日に内容を決める、ということがある。

すべてのセッションの前に、ホワイトボードに枠だけ書いて(今回のPingPongでは1セッション30分で、3トラック × 4セッション)、せーのっでセッションを組みたい人が書き込んでいく。

当日決める、といってもセッションオーガナイザーには、資料を準備したり、形式を決めたりという普通のセッションと変わらないような準備が求められる(30分くらいで)。

といっても、初日の講演を受けて、とか、この場に集まっている人とこの話題で話したい、といったような、テーマでOKで、要するにこれまではカンファレンス会場の隣のロビーとかメインのセッションを抜け出してやっていたような議論を表舞台にしてしまう、というしかけ。準備といっても問題意識を箇条書きにしたり、といったものとなる。

@etoさんやら@kensuzukiやらによって瞬く間に枠は埋まっていき、慌てて僕も一枠確保。

テーマは、前日のPingPongプロジェクトの原宿でのTweetを視覚化した地図をネタにした、「知の構造化の視覚化がメンタルモデルをどう変えるか」。

具体的には、PingPongスタッフの 地図UIをデモしてもらい、「そのマップを見ることで利用者の行動はどのように変化させられるのか」について議論を行う、という会を計画した。

おもしろかったのは、3パラレルトラックのうちトラック2だけがustされるのだが(ちなみにustはヒマナイヌさんによる超ハイクオリティustreamでした)、トラック2から埋まっていったこと。

それは単に目立ちたいからというわけではなく(たぶん)、ustされる価値がありそう、という観点のセッションから声があがったということで、その観点もunconferenceっぽい(気がした)。

セッションの模様は以下のustアーカイブと、ホワイトボードのキャプチャ参照:

参加者が自己組織的にプログラムを作る分科会形式:アンカンファレンス – himag
http://www.himanainu.jp/himag/?p=3523

(全体をustしているので、1時間23分くらいから僕のセッションが始まります)

セッション2dの議論の結果(ホワイトボード)
http://plixi.com/p/54044112

僕のセッションでは、PingPongディレクターメンバーの岡さん、Leeさんをはじめとして、ikegさん、@etoさん@kensuzukiくん、など豪華な顔ぶれが勢揃いし、かなり充実した議論を楽しむことができた。

上がったトピックとしては、「視覚化における編集」、「システムを利用してもらう、あるいは利用し続けてもらうためのしかけ」、そのための「愛すべきシステム」、「目的を持ったシステム、持たないシステム」、「見せないことの重要性」、「ブラタモリ」、「行動の動機付け」といったような観点。これらの観点について、各参加者の意見が交換された。

この臨場感は、unconferenceのホットなトピックを扱える特性によると思う。

HCD-Netの次回フォーラムあたりで、この方式での議論を実施してみたいと思う。

UX+Pattern Weekends

忘れないうちに骨格だけでも:

6/8 講演準備の議論としてtaiga氏とパターンについて話す。「新しい物語」という言葉遣いについてtaiga氏が敏感に指摘。

6/11 東工大 Creative Flowにて「IA、未来のパターンランゲージ」を講演、中埜さんにゲストに来ていただく。パターンとはなにか、について初めて人前で話し、自分の理解具合を把握。問題意識は、「【物語】をいかにIAに盛り込むか」

6/12 HCD-Netフォーラムにて産総研北島氏の実時間制約下のMHP、認知的クロノエスノグラフィの技法から調査→モデル化→設計→評価における既存アプローチの限界と、UXにおけるシミュレーション技法の着想(フェーズ2)。

6/12 同じくHCD-Netフォーラムにて石黒さん、takram畑中さんの公開ブレストから、ブレストと情報の体系化とのせめぎ合いについて一つのモデルをみる。これは後日パターンランゲージにおける「パターン生成」と「ランゲージ化」の問題と同質であることがわかる。

6/18 AsianPLoP パターン祭りにて、ようやくパターンランゲージがなにかつかめてきた。中埜さん、伊庭くんの話も面白かったが、先週自分で話すためにまとめていたのが大きかった。ようやくちゃんとしたパターン生成のワークショップも体験したので、今度試してみます。eto氏になんかいろいろと思っていることをまくしたててしまった。すんません。あと、伊庭くんとすげーひさしぶりに(たぶんD論前にNYに行った以来だから、10年ぶりくらい?)に会った。中埜さんからは次回にHCD-Netサロンに来ていただく了解をゲット。

「Webデザイン」とはなにか

「Webデザイン」というのは画面だけのデザインではなく、どちらかといえば長期にわたってじっくり使われるプロダクトデザインの領域に入る。
プロダクトデザインといっても狭義では外形の造形をさすだけのこともあるが、もちろん広義では「いかに人の生活に役立つか」という観点でのトータルなデザインをさす。

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連塾 JAPAN DEEP 3

去る5/30に開催された、松岡正剛氏による、連塾 JAPAN DEEP 3に参加。

連塾3

RSWが生みの親である西のTEDと、RSWを日本に紹介した人でもある松岡正剛氏の東の連塾をまとめて受けると、情報量もさることながら好対照ぶりに思うことも多い1週間だった。

ちなみにそれといっしょに、高松で講演したり、札幌でイベントを主催したり、進行中のプロジェクトしたりもあったから、わりと体もしんどい。

さて、今回の連塾だが、松岡さんが萩尾望都氏、松本健一氏、横尾忠則氏がそれぞれ2時間づつの対談をする、という、考えただけで濃いイベントだが、実際内容はかなり濃かった。

それぞれ立ち位置も違う人との対談なので、もう会話の位相が全然ちがっていて、聞いているこちらの頭のモードも90度づつ切り替えながら聞く感じだったので、むしろあんまり頭が馴化されなく、疲れた感じはなかった(少なくともその場では)。

萩尾望都氏、横尾氏の話は、それぞれの作品の裏側と遍歴、おもいのたけを存分に楽しめた。ここまで語らせてしまう松岡さんはやはりすごい、と思わせる。

で、ただ、個人的に頭を揺さぶられたのは松本健一氏との対談。

正直氏の著作は読んだことはなくて、著作の評論とかを読んで(若干偏った)印象を持っていたのだが、すべて払拭され、今年一番の開眼させられたイベントとなった。

話は、松本氏のライフワークとも言える(?)、北一輝研究を題材にしながら、開国から明治〜大正〜昭和の天皇制に対しての当時の人々のピュアな感覚と、「天皇現人神」というシステム(機関)とを導入するに至った思惑とを解体する議論となった。

と書くと、単純化しすぎだが、この話こそまさに、これだけの時間をかけてストーリーを共有しないと得られない理解、と言えるものだった。

おそらくこの回の連塾も書籍化されると思うので、ぜひ読んでもらいたい。

この対談から得た教訓は、知識人に対しての右翼とか左翼とかの安易なレッテルは、その人に対してのこちらがわの思考放棄なのだな、という自戒の念。

と、それはさておき、TEDにしても連塾にしても、個人的にはせっかくこの時代に生きているのに、なんでみんな興味を持たないのかが不思議。