投稿者「Atsushi」のアーカイブ

Atsushi について

Information Architect

CHIのinteractionsがおもしろい

SIGCHIの雑誌「interactions」が前の2009年1/2月号から編集方針が変わったらしい。

http://interactions.acm.org/

AdaptivePathやJump Associatesの記事やら、ノーマンの記事やら、新しいメソッドや理論の枠組みなどが載っていて読んでいて面白い。

blogで見たことがあるような記事もあるが、このクオリティでまとめられていると、雑誌として読み応えがある。

たとえて言うならHarvard Business Review(英語版)?

そういえば、今号のHBRは、Semantic Webの話なんかも載っていたな。

いつのまにか、学会誌も面白くなっていた。

マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless


マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン Loveless (P‐Vine Books)

「通常、レコードを作るときは、中音域を抑え、高音域と低音域とを上げることで、よりスウィートな響きにしようとする。さらにステレオ・セパレーションやリヴァーブ、アンビエンスなどを駆使して、よりハイファイなサウンドに仕立てあげる。そうやってビッグな、空間的広がりのあるサウンドを求めることが多い。でも、ぼくが録音したものは、ほとんどモノラルだった。『スーン』はモノラルだし、『トゥ・ヒア・ノウズ・ホエン』もモノラル。ステレオ・セパレーションのかけらもない。(略)」

「ぼくにとって重要だったのは、ギターをサウンドの中央で爆発させること。あとは、コーラスとかのモジュレーション・エフェクトを避けること。つまり、コーラス、フランジャー、フェイザーといったエフェクター類の使用や、機械的なサウンド・モジュレーションは徹底的に廃した。(略)」

対価性の放棄と得られるもの

書物について(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/04/05_0820.php

なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。
そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。

著作権と書かれたモノの対価を巡る議論。

音楽業界はMy Spaceなどのインディペンデントな方向性と、おまけの着メロのような客寄せノベルティな方向性の二極化が激しい。

blogが書いて発表する敷居を下げたように、音楽もMTRが安くなったと思ったらハードディスクレコーディングが簡単にできるようになって、15年前に数百万かかっていた機材が一台のノートPCに数万円のUSBインターフェイスをつければ可能になった。そこに、My Spaceという流通の場もできた。好きな人が「その気になれば」いくらでもで発表もできるし、お金をかけないで入手もできる。

と、状況を比べながら考えていたが、やはり世の中「その気になる」人が少ないのだろうか。

AV機器レンタルという選択

iTSCOMというケーブルテレビを使っている(視聴している)のだが、セットトップボックス(STB)つまり受信機をレンタル、という形態で使っている。

まあ、ケーブルテレビを解約したら使えなくなるから、そういうオプションがあると思うのだが、そのSTBはいまやHDD内蔵、DVDレコーダー内蔵、そしてデュアルチューナー内蔵、とちょっとしたものになっている(もちろん地デジチューナー内蔵)。

iTSCOM.net |セットトップボックス
http://www.itscom.net/cabletv/big/stb.html

我が家にはいわゆるテレビがなく、プロジェクターに映し出すしかできないため、チューナー機能が必要でCATVに加入し、STBをレンタルしてるという事情もあるのだが、にしても、メディア書き出し機能はさておき、この録画機能というものは、一度買ってしまうとけっこうなスピードで容量が増えていくため、このレンタルで常に最新の容量のものにチェンジ、ってのは実は結構最適解な気がしている。

もちろん、自分でHDDを換装したり、手作り系のものでやるっていうのもありなのだが、正直いちいちそのトレンドを追っているのも大変だったり、ものすごくおまじない的な手順をふまないと機能が使えなかったりしがちなので、一般的におすすめはできない。

で、月々数千円のこのSTB費用は、考え方では分割して支払っているということも言える。

と考えると約1年前に250GB HDD付きのHDDを借りているので、2、3万円くらいそれに支払っていることになる。

今度500GB HDD+DVDレコーダつきのやつも加わったのでそれにチェンジ、しようとしているのだが、それが月3000円くらいだっとしても、、まあ、2年くらい使ってもまだ安いともいえる。

と、絶対値としてもお得な気もするのだが、なにより、精神衛生上「買い時」に関してあまり気を遣わなくなると言うのが大きい。

そして、なにより大きいのが、すでに自分のなかの価値として(=家庭内財務上の項目として)このSTBはサービス費用としてしか認識されていない。まあ、会社の財務なんかだと別にリースにするのは普通にやられるが、個人財務のなかにこの感覚が入ってきているのがちょっとした発見だった。

ちなみにうちでは、AVアンプというものに、チューナーやらゲーム機(たち)やら、アナログプレイヤーやらがつないであり、そこから古いサンスイのアンプ(シゲからの借り物)を通じてスピーカーを駆動している。

こういったハブがあると、いろいろと便利なわけだが、そういったことを考えると早いところAV機器のIFはHDMIで統一され、シンプルかつ確実になっていただければと思ってやまないわけです。
(現時点ではHDMIはHD画像+デジタル音声を一度に扱える規格であるが、デジタルコピー制限でいろいろと制約がきびしいのです)

第三回情報デザインフォーラム(あるいはソーシャルネットワークの科学へのアプローチ)

第三回 情報デザインフォーラム インタラクションデザインの未来に参加してきました。

今回は、masuiさんの講演と、それを受けたパネルディスカッション。

講演のほうは、増井さんの現在の関心事である(?)「どんどんどこでもWebサービス」の一端を紹介。デバイス系も含め、こういった「ちょっと作ってみる」ことが可能になってきているのがいまのいちばんの特徴であると思う。

それをソリューションとして提供するには、「問題に合わせる」ことが必要になってくるが、やはりいまはどんどんあたらしい手段が生まれている時代であり、問題解決側がその手段を把握していないことにはお話にならない。

いわゆるウェブの技術は一段落している気がするが、これからは増井さんも言及していたソーシャルネットワークの力学(ダイナミクス)について、より深い理解が必要となる。

ソーシャルネットワークの科学では、いわゆるネットワークサイエンス的なアプローチで、その経路数や、ハブの密度がキーポイントになる。

しかしながら、実際の世の中のネットワーク(ソーシャルネットワーク)では、個々人の結びつきとハブの強度がそんなに単純でなく、学習し進化するモデルを用いる必要がある。

ここで個々人の関係性を結びつけるため、僕の博士論文ではこれを「信頼」という結びつき因子を導入することでモデル化した。その際の信頼には、ニコラス=ルーマンが「信頼」という本の中で定義した3段階の信頼の定義を用いた。

すなわち、

ルーマンの信頼 – suneoHairWax

(略)まず,ルーマン信頼概念を整理しておこう.’73年の『信頼』では,信頼の様式は三層構造として概念化される.[1]意味と世界を構成する〈馴れ親しみ〉Vertrautheitという様式,[2]人格Personlichkeitとしての他者が,自由な行為能力を発揮するであろうという一般化された期待であるところの〈人格信頼〉Personliches Vertrauen,[3]他者との世界観の違いという亀裂に抗して,あるシステムが作動していることに信頼を寄せる〈システム信頼〉Systemvertrauen.それぞれを詳しく見よう.(略)

と定義できる三段階を用いた。簡単に言うと、

  1. 直接体験した結果としての信頼
  2. 人格への信頼
  3. システムへの信頼

という3段階の信頼を信頼の深化として採用し、それを用いたコミュニケーションモデルを構築した。

いまのところ、ソーシャルネットワークモデルでこの概念を用いているものが見あたらないようなので、試してみたいと思った。

実はこれは個々人の関係性だけでなく、企業間の関係性についても言える(shinzoさんがいうところの「企業活動=trust network」という意味でのtrust)。

とすると、実はこのアプローチは、行動経済学の理論にも使えるのではなかろうか。

まだ夢想段階だが。

話を戻して、フォーラムでは、パネルディスカッション後のポスターセッションでは、Site-it!を展示。

また、そこでは、アドビの山崎氏、首都大学東京の(って変な名前だな)安藤博士らと、「なぜ日本ではメディアアートに人が流れていってしまい、(工学的な意味での)インタラクションデザイン教育がなされていないか」について、延々議論。

結論はまだ出ていないが、やはり話をしながら、議論の立ち位置によって、いろいろ解釈が異なることは合意できた。

用語の統一は重要だ。


ライト、ついてますか―問題発見の人間学

IA, and UX

毎年春の恒例となったIAサミットが閉幕した。
今年は10回目という節目の開催ながら、不況の影響もあり参加者は昨年の600人超から400人弱へと減少、一回り小さくなった開催だった。

今年はネットイヤーの坂本くん、コンセントの河内さんと共に渡米となり、現地で西海岸に留学しているでソニーの佐藤大輔氏夫妻と合流した。

行われたセッションの内容は、より横断的な内容が増え、またIAの将来や今後のあり方を議論するようなセッションも多く開催されていた。
これまでより、パネル形式での議論が多くなり、また数人で議論を行うようなセッションもいくつか開かれていた。

通常の(概念的な)セッションとしては、メディアの変革に伴う利用者の変容、優れたユーザー体験の提供のためのポイント、段階的なサイトリニューアルのための戦略、といったようなテーマ。
また、ファセット分類検討のケースじれや、おなじみeightshapesによる、優れた納品物のためのテンプレートといったより実践的な内容も見られた。

そして、それと同時に見られたのが、IAはどのように進化すべきか、IAコミュニティの現状の課題の分析といった「IAはどうなるのか」というテーマだった。

そこでは、ちょうど先月IA Instituteも共催して開催されたIxDA(Interaction Design Association)との棲み分け、またそういった観点で話が分断されることによるIAコミュニティへの求心力の低下といったものが議論されていた。
それを象徴したのがadaptive pathを率いるJesse James Garrett氏のクロージングプレナリーだった。

そこでJJGは、もはや我々はインフォメーションアーキテクトを名乗るべきではない、我々はみなユーザーエクスペリエンスデザイナーなのだ、と宣言したのだった。

この宣言にその場は一瞬凍りつき、静まりかえった。
飛び交っていたtwitterのコメントにも動揺したコメントが多く見られた
http://search.twitter.com/search?q=%23ias09

JJGの演説では、我々が行っているのは、カスタマーの声を反映させた要件定義、それをクライアントと作り上げていくことであり、IAだのIxDだのと狭い範囲の(little IAの)議論を行うべきではない、という趣旨であった。
(スピーチの内容はIA Summit09のサイトよりポッドキャストで公開される予定)

そもそも米国で広まっているIAと名が付いている職種はInformation Architect(インフォメーションアーキテクト)と、Information Architecture(情報アーキテクチャ担当)との二通りある。
その内容としては、コンテンツ分類をしてワイヤーフレームを書く、というものから、プロジェクトの上流から人間中心設計的なプロセスを導入し、要件を定義していくといったコンサルタント的なものまで幅広い。

こういった背景から、より上流に関わる人材の呼称として、インフォメーションアーキテクトからUXデザイナーが適切だ、という指摘は理解できる。

そして実はJJGのこの主張は2002年に彼がia/reconというエッセイを書いたときからまるで変わっていない。

ia/recon
http://www.jjg.net/ia/recon/
日本語訳:IA再考
http://iainstitute.org/ja/translations/000305.html

このエッセイで彼は、組織の中で優れた情報空間(情報アーキテクチャ)を構築するために必要な作業は、コンテンツの分類やナビゲーションの設計といったいわゆる「情報アーキテクチャ」作業だけでは不足しており、その範疇外のプロジェクト自体へのコミットまで必要である矛盾を指摘している。

IA再考
(略)その結果が「小さなIA」と呼ばれる — コンテンツ構成と情報空間の構築に焦点があてられたものだ。しかしながらこの役割の定義を(領域として)実際の役割にあてはめられると、定義された「枠」によって、情報アーキテクチャの成功に本来不可欠な多くの要素が、任務の範疇外とされてしまうのではないか、という不安を生む結果となってしまう。(略)

ここでいう「情報アーキテクチャの成功に本来不可欠な多くの要素」を担当する役職としてUXデザイナーという名称が必要となるというストーリーとなる。

つまりこれまでは、

情報アーキテクチャ:問題解決のための要因
インフォメーションアーキテクト:わかりやすさの問題を解決するひと(情報アーキテクチャはその一要因)

という形容上の齟齬があった部分についての解決を、ここで言われていたインフォメーションアーキテクトという呼称をUXデザイナーとすることで解決する、ということとも言える。

このUXデザイナーが解決する問題としては、IxDも含まれる。
(本当はテクノロジーデザインや、グラフィックデザインも含まれるはずだが、その議論はまた別途とする)

同じような問題意識については、adaptive pathのChiaraのエントリが端的だ。

Why I am no longer calling myself an information architect. | adaptive path blog
http://www.adaptivepath.com/blog/2009/03/23/why-i-am-no-longer-calling-myself-an-information-architect/

このなかで彼女は、なにがIAに必要かを語るとき、IA以外のことを語っていた、と記している。

IA再考
そこでただひとつの解決策は、領域と役割の定義を互いから完全に切り離して考えることだ。これは一見反論理的に見えるけれども、実際うまく理にかなったやり方である。おまけに一方が他方に先んずることもない。ひとつの例として、オーケストラの指揮者は多岐に渡る創造性と管理能力を問われるが、「指揮をする」という役割ひとつをとって考えてみると、必ずしもそれは彼が抱える広義の任務を説明してはいない。

日本では、結局(幸いにも)インフォメーションアーキテクトという職種もあまり普及しておらず、またUXデザイナという名称もまだまだこれからといったところだろう(コンセントではUXアーキテクトという職種がある)。

日本では、品質担保とプロジェクトマネージメントの両方の責務を負った役職として「Webディレクター」がある。
現在、僕自身、そして日本のIAコミュニティでは、情報アーキテクチャを職能としてWebに関わるより多くの人に知ってもらうべきだと考え、活動を行っている。
JJGの今回の宣言は、日本における状況にも合ったものであると言えるだろう。

また、先日Peter Morvilleによってエントリされた、User Experience Deliverablesもこの構造を表している。

User Experience Deliverables
http://semanticstudios.com/publications/semantics/000228.php
日本語訳:ユーザーエクスペリエンスデザイン成果物リスト
http://blog.iaspectrum.net/UserExperienceDeliverables.html

JJGの1時間にわたる画面投影を伴わない演説は、今回のサミットで多く見られた危惧を一掃するものではなかったかもしれないが、セッションを統括するにはふさわしかったようにも思う。

そして、僕が肩書きを変えるかというと、やはり僕はインフォメーションアーキテクトのままでいたいと思う。

Information Architects

1.データに潜む隠れたパターンを整理し、複雑さを明快にする人
2.ユーザーが自分の知識を獲得するための道筋を見つけられるような、構造や地図を作る人
3.明快さ、理解、情報の整理に特化した、時代の要求によって生まれた21世紀の職業
Information Architects – Richard Saul Wurman
http://www.amazon.co.jp/dp/0823064557

IA Summit 09

今年も毎年恒例のIA Summitに参加のために、3月18日〜24日まで日本を離れます。

とりたててすごいトピックはなくても地味にトレンドの変化を感じることができる貴重なイベントです。

ちなみに、場所はテネシー州メンフィスで、プレスリーにはあまり興味がないので、旅行気分というより、子供としばらくあえない残念感のほうが強いかも。

メンフィスのおすすめ情報をお持ちの方教えてください。

IA Summit 09 | 情報アーキテクチャアソシエーションジャパン – IAAJ

IA Summit 09

右派と左派

池田信夫氏の主宰するアゴラbetaで長年の疑問が腑に落ちた。

「論壇」の終焉 – 池田信夫

このように日本には、いまだに冷戦のころの図式が残っていて、政治・経済についての立場を次のように「バンドル」する傾向が強い。

政治   経済    社会    歴史
右派 改憲 小さな政府 法と秩序  国家主義
左派 護憲 大きな政府 表現の自由 平和主義

元々右翼左翼とはフランス議会で右側に保守派(国粋派)が陣取っていたから、に端を発するはずだが、当然ながらコンテキストが全然異なる今の日本において、だからといって上記のようなバンドルが有効かどうかは自明ではまったくない。

そして、こういうバンドルの無意味さは、おそらく自民党でももうそろそろ多数派に鳴ろうとしていると思うが(信じたい)が、おそらくそうはいかないのだろう。

このあたりの形骸化は、日本で自民党でも民主党でも、その党の方針ではなく(そもそも方針なんて実際はないわけだから)、その実装としての施策で判断をするしかなくなっている現状として現れてきている。

老害は時間と共に朽ちるのを待つしかないとして、日本という均質化した社会で(そうでもないのかな?)今後「政党」というものは意味を持つのだろうか?

煮込みハンバーグ

木曜あたりに風邪をひいたようで、のどが痛く、かつ昨日1PAC1周年パーティにて、森田くんがロールキャベツを週末作る、と言っていたことに感化され、煮込みハンバーグにする。2週続けてデミグラスソース(的なもの)自作となった。

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