現在一般にマックだろうとWinだろうとUNIXだろうとファイルシステムといえば階層型である。ぱっと思いつくだけでおかしなところは、
・アプリケーションとドキュメントが一緒に扱われている。
・複数のカテゴリにまたがる際には主と副(エイリアスとかショートカットとか言われる)になる
・置くときに場所を決めなければならない
・複数のアプリをまたがってつくる書類というのはあんまりない
というように、コンピュータシステムを前提にしないといろいろとへんなところがある。これらは必然というよりはオペレーションシステムが実行型アプリケーションとそのドキュメントファイルという構造を前提としているからであると言える。
これに対して人間側の都合でがんばろうとしたのが、アップルのOpenDocであり、MSのOMSであるわけだが、これらはうまくいっているとは言いがたい。
この理由はひとえにスタンダードの存在と普及率の問題であろう。
理想のファイルシステムがあっても、それが普及していなければインフラとしては使えない。自分一人で作業をするわけではないから、互換性がなければ「使えない」のだ。逆に言えば、互換性があって、普及しているものであれば、それ自体の生産性やクオリティはたんなる市場価値、競争優位性の問題となる。このベクトルの違いは興味深いのでまた別に扱うことにする。
理想のファイルシステムに関してはまた次回。
投稿者「Atsushi」のアーカイブ
教育とはなにか
いま仕事(ビジネス)と教育を両方やっている。研究は以前やっていたがいまはやっていない。
簡単に言ってしまうと全部仕事なんだろうけど、「仕事」は誰かが求めていることを探してそれを提供すること、「教育」とは誰かに対して何かを教えること、「研究」は自分で興味のあることをあるいは世の中が必要とすることを探求すること、と思っている。
教育は広い意味でビジネスにも位置づけられるだろう。趣味で教えているのでなければ別だけど。
最近教育プログラムを作っているが、枯れた分野のこと(物理とか古典経済学とか)といままさに発展していること(インタラクティブメディアとか社会学とか)、静的なこと(公式とか)と動的なこと(デザインとか)の対比と教え方の構造を考えている。動的なことは実習を通じて学んでいくであろう。静的なことは知識として講義を通じて学んでいくであろう。まずのこの関係をもっと整理する必要がある。
つぎにスタティックなこととといままさにかわりつつあることとを考える必要がある。
3年間講師をやって感じていることは、教育の一つのアプローチは「タスク設定」ではないかということだ。講義をやってある体系を伝えるということは、語り口の善し悪しはあるけれど、遠隔講義やテレビ講義でもいいと思う。あるいは人によっては本を読むだけでもいい。テレビでやっている「放送大学」を最近見ているが、さまざまな知識体系は、これだけで事足りる。
ただ、研究アプローチや、物事に取り組む際の向き合い方、はだれかと向き合いながらやりたい。
その時、講師が生徒に対して、その人の持てる力の105%くらいのところに課題を設定してあげて、それをやらせると、そのちょっと背伸びするくらいのところでいろいろと学べる。これが200%の課題だと手に負えないし、80%だと簡単すぎる。かけ算みたいなものだったら100%をいっぱいやらせて身に付かせるのだろう。これも100.2%くらいでちょっとづつあげていくのもいい。
相手に対して常に105%がなにかを判断して、それを提示できること。それが教師に求められる能力であると思う。そのためには、全体のビジョン、難易度のロードマップを考えることが必要となる。
文字と図形
字をいっぱい書いているとたまに図形に見えてくることがある。
これって英語でも起こるのだろうか。
人間の感情と合理的判断
一般的にヒトの意志決定において、「ちゃんと考える」「直感で」は相反するものと思われている。ちゃんと考えて、というときは因果関係を検討した上で、というニュアンスが込められている。
昔読んだ「オデッセウスの鎖」という本では、「感情」という人間の意志決定の1つの手段がどうして存在しているかを考察している。ここでは、人間がその場限りの自己利益を越えた行動をとるために感情がある(進化論的に言えば、そういう意志決定バイアスがあったヒトだけ生き残った)ということを言っている。
直感で思った通りに(と自分では考えて)進んでいても、結局それはこれまでの自分の経験や環境によっての判断に基づいているので、個人のアウトプットとしてはそんなに自由度は高くない。
しかしながら、安易なアウトプットかどうかというのはそれはまた別だろう。