投稿者「Atsushi」のアーカイブ

Atsushi について

Information Architect

コミュニケーションの欲求とできてしまうこと

元来「伝えたい」は「伝わらない」を前提にしていた。旅行に行って絵はがきを出すことは、旅先でいっしょに来れていない人にその思いをちょっとだけでも伝えるためだったはずだ。ケータイムービーのCMを見ていて、通話料が安いので旅先でムービーを送り続けていたら夜になっていた、というネタがあった。これは笑い事ではなくて本当に起きている。ビデオやデジカメ等の記録メディアの発達によって、だれしもが簡単に記録を残せるようになった。携帯電話やケータイメールの発達でいつでもどこでも連絡がとれるようになった。だと今度はどれだけ人に伝えればいいの?という問題につきあたる。携帯電話でいつでも連絡がとれるということは、連絡がこないのは連絡したくないから。ビデオで映像を残せるのに残さないのは残したくないから。そう受け取られても仕方がない。でも、そこには連絡をとるコストは入っていない。旅先でちょっと絵はがきを書くのと、ビデオカメラを準備して場所取りをしてテープを買って予備のバッテリーを準備してビデオを残すのとではわけがちがう。そうやって、いまや運動会はビデオを撮る場と化しているし、観光地ではみんなとりつかれたように記念写真を撮っている。そこではファインダーのなかからしか風景を見ていない。記録することが目的になってしまっている。
「自分の時間を削って」記録を残す。
もっと自分の身になる、実体験のほうを重視しなければならんと思うんだけど、実体験と記録の比率を決める基準ってのは難しいと思う。

回すこと

没頭してこそ見えるものがある

茂木さん池上さんに会いにクオリアの会に行った。久しぶりに鈴木健や橋本敬さんに会って面白かった。なんというかただ面白いだけでなく、本当にちょっとした話を交わしても、シリアスで緊張してそして興奮する本当にいい人たちだ。

それはさておき、この二人の話はぜひ聞きたかったので池上さんに茂木さんと漫才をやれやれとけしかけたのだが、そのなかで興味深い話があった。
池上さんは、教育には回すことが重要と言っていた。これは僕が考える「身を埋める」ことと同じ意味だ。先日の知覚と創造シンポジウムでも、須永さんが「どうして自分が50枚のデッサンをやらせるか」を語っていたが、それも同じだ。須永さんはその50枚を「創造の場を作る作業」と言っていた。確かに教育は創造の場を作る作業だろう。そこにしか意味はない。これは「教育は適切なタスク設定」と言い換えることもできるだろう。いずれにせよ、明後日来期の造形のカリキュラムを作る作業があるので、そこに活かしたい。

茂木さんは、プロは仕事に言い訳をしない、と言っていた。できたものが勝負だと。教育はできたもの勝負ではなく、プロセスが重要だ。プロの仕事はできたものが重要だ。それは正しい。でも、できたものが評価されない状況はどうだろう。あるいは評価はされるけれど、たいしたことはないものはいっぱいある。それがトンデモ系かどうかは誰にもわからない。強いて言えば歴史だけがそれを判断するのだろう。

情報アーキテクチャというもの

建築とは旧来あきらめがそこにはあった。

基本的に一度建物は作ってしまえばそれでおしまいであって、せいぜいやっても改築。人は成長するし、状況も変わるが、そんなことに対応はしてられない。なので、最前を尽くして設計をして、その後は人がそれにあわせていく。下手に可動性を持たせるよりも、いかに順応しやすい設計意図を持たせるかが肝だ。そこでは意匠が必要。ニュートラルにしたり、自由度を上げすぎるよりも、適度に作家性が要求される。そこには動くもの(人間)と動かないもの(建築)の関係がある。
が、インタラクティブにおいては、その関係が動くもの(人間)と動くもの(インタラクティブコンテンツ)となる。

ここでいうインタラクティブは単にダイナミックであるということとは違う。例えばあるアルゴリズムに従った流れ作業は、ダイナミックなインタラクションではあるけれどスタティックと言っていい。ここで上げているので適応インターフェイス、あるいはカスタマイズコンテンツ、そして多人数参加型コンテンツだ。

そこでは動くもの対動くものなのであきらめが存在しない。どこまでやったらいいのかもまだわからない。
なのでついやりすぎてしまっているのが現状であると思う。

情報アーキテクチャとは、この動くものの中でなにが動かないかを規定しているものだと思っている。どこまで動かして、なにを固定させるか。固定していなければ人間が同一と認識できない。人が歩み寄るためには固定されている部分が必要となるのだ。

矢印の表記

ぐるっと囲んだり、びゅーっと矢印を引いたり、適当に書いたレイアウトが意味を持っていたり。
その適当さがなければ知的生産は進まない。

教育という創作

教育は僕にとって、自分のやっているプロセスを見直す働きがある。
それはラフ絵を何枚も書いてみて、自分で発見があるようなもので、自分に対しての発見がそこにある。

開国というグローバリゼーション

近藤哲也氏と話をしていて導かれた仮説であるが、いまの世界の変容というのは、江戸から明治の開国の状況に例えると面白いかもしれない。

いまの世の中の変化はそのまっただ中にいる自分でさえも困惑することがあるほど大きいが、それは常にそれぞれの時代の人は自分の時代についてそう思ってきたはずであって、なにもいまに限ったことではないであろう。

むしろ、江戸時代と明治時代の変化のギャップの方が渦中にいる人にとっては大きかったかもしれず、江戸に生まれた人と明治に生まれた人がおなじ環境で暮らしていれば、お互いにギャップを感じていたはずだ。平成に生きる身からすると江戸時代と明治時代がつながっていることはめまいを感じるほど不思議な感覚である。

江戸時代と明治時代の大きな違いは鎖国しているか否かであって、開国とは日本にとって西洋という世界へ門戸を開くグローバリゼーションであった。そこで考えたことであるが、現在のインターネットは、経済としそうにおける開国なのではないだろうか?とすると日本にとっては明治維新以降の開国、アメリカにとってはひょっとしたら初めて体験する開国かもしれない。ヨーロッパにとってはあまりとりたてることではないような気がする。

メモ:顔の振動と見えている風景

道を歩いているときは結構な振動が体には伝わっている。例えば頭にビデオカメラをのせて撮影すれば、映像はがくがく揺れるだろう。でも目で見ている風景はそんなに揺れているようには見えない。この理由を調べる必要がある。「見えている風景のリファレンス」説との関係も。

知覚と創造シンポジウム

認知科学学会主催の「知覚と創造」シンポジウムに参加。

11時〜5時までの中身のあるシンポジウムだった。ダイナミックアーキテクチャの概念についての勉強会をベースにしたシンポジウムであったが、出身バックグラウンドが多岐にわたっていたせいでおもしろかった。いわゆる認知実験の発表は、状況のコントロールが限定されすぎていてそのせいで一般の状況とのギャップがありすぎる。今回のシンポジウムはそこを定性的な議論に割り切っていたのが面白かった理由だろう。
議論は、1)創造(あるいは創造過程をまわすため)を促すためには自らのアウトプットを自身で再確認する「カップリング」過程が重要、2)カップリング過程は「創造の場」を作ることで発生させられる、という2点に要約されると思われる。
不明だった点は、「創造の場」の必要要件。創造のどのフェーズのために、どういったこと、という定性的でいいので場合分けができるかもしれない。
また、それと関連して、人が知覚したあとでどう変化するか、その人にはどういった違う刺激を与えればよいのか、については未だ見えず。
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ファイルシステムに関してのメモ

現在一般にマックだろうとWinだろうとUNIXだろうとファイルシステムといえば階層型である。ぱっと思いつくだけでおかしなところは、
・アプリケーションとドキュメントが一緒に扱われている。
・複数のカテゴリにまたがる際には主と副(エイリアスとかショートカットとか言われる)になる
・置くときに場所を決めなければならない
・複数のアプリをまたがってつくる書類というのはあんまりない
というように、コンピュータシステムを前提にしないといろいろとへんなところがある。これらは必然というよりはオペレーションシステムが実行型アプリケーションとそのドキュメントファイルという構造を前提としているからであると言える。
これに対して人間側の都合でがんばろうとしたのが、アップルのOpenDocであり、MSのOMSであるわけだが、これらはうまくいっているとは言いがたい。
この理由はひとえにスタンダードの存在と普及率の問題であろう。
理想のファイルシステムがあっても、それが普及していなければインフラとしては使えない。自分一人で作業をするわけではないから、互換性がなければ「使えない」のだ。逆に言えば、互換性があって、普及しているものであれば、それ自体の生産性やクオリティはたんなる市場価値、競争優位性の問題となる。このベクトルの違いは興味深いのでまた別に扱うことにする。
理想のファイルシステムに関してはまた次回。