eto氏の発言が興味深かったのでメモ
誤って導入されたパターンランゲージ ( デザインパターン ) と、正しく導入しなおされたパターンランゲージ (XP) との対立がある。
便利な部品がたくさん出回ってうれしい ( オープンソース ) という開発手法と、自由な社会を目指した運動としてのフリーソフトウェア運動との対立がある。
再利用可能な情報の集約の場としての Wikipedia と、それを成り立たせている議論の場 ( トーク との対立がある。
アレグザンダーの初期の活動 ( 数学をデザインに導入する ) と,後期の活動 ( パターンによる利用者の参加による建築 ) は,そこにどのように位置付けられるのか.
10+1 における難波和彦氏の論考は面白い.初期のデザイン理論 ( 数学の導入 ) を再評価すべしと言っているのだが,私はそれは違うのかもと思っている.
後期の方法論への「転向」こそが本質であり,そのやむにやまれぬ移動こそを再評価すべきではないのか.
この話のポイントとしては、社会的に知識や情報が共有されている状況が意味を持っている。
そして、そういった状況になる背景には、デザインパターン的な「例」がいっぱいあることで、理解が促進される、という枠組みがあるのではないかと踏んでいる。
ふと思うんだが、当たり前かもしれないが、自然言語って、パタンランゲージなのではないかと。
もちろん、パタンランゲージはある程度の形式化や編集をされる事で成立するものだけど、その形式化や編集は、共有化のためであって、共通の文脈をもった人々が、そのパタンに意味付けをして、一致したりずれたりするところ等、とても良く似ていると思う。というか、パタンランゲージの特殊性ってその出自や建築と、ITで特別扱いされている言葉だってこと以外は、よくわからなくなってきた。。。どうだろうか?
アレグザンダーの言っているパターンランゲージの思想は、「デザイン過程における利用者の関与」=「目的の実現に対しての利用者の参加」にあると思う。
なので、普通の自然言語はツールとしては使われているが、目的が特定されていないのでパターンランゲージとは言えないのじゃないだろうか。
パターンランゲージを用いたワークショップのファシリテーションは、もっと語られてもよいかと思うけどね。
というわけでオリジナルのツールをいくつか作っているところ。