没頭してこそ見えるものがある
茂木さんと池上さんに会いにクオリアの会に行った。久しぶりに鈴木健や橋本敬さんに会って面白かった。なんというかただ面白いだけでなく、本当にちょっとした話を交わしても、シリアスで緊張してそして興奮する本当にいい人たちだ。
それはさておき、この二人の話はぜひ聞きたかったので池上さんに茂木さんと漫才をやれやれとけしかけたのだが、そのなかで興味深い話があった。
池上さんは、教育には回すことが重要と言っていた。これは僕が考える「身を埋める」ことと同じ意味だ。先日の知覚と創造シンポジウムでも、須永さんが「どうして自分が50枚のデッサンをやらせるか」を語っていたが、それも同じだ。須永さんはその50枚を「創造の場を作る作業」と言っていた。確かに教育は創造の場を作る作業だろう。そこにしか意味はない。これは「教育は適切なタスク設定」と言い換えることもできるだろう。いずれにせよ、明後日来期の造形のカリキュラムを作る作業があるので、そこに活かしたい。
茂木さんは、プロは仕事に言い訳をしない、と言っていた。できたものが勝負だと。教育はできたもの勝負ではなく、プロセスが重要だ。プロの仕事はできたものが重要だ。それは正しい。でも、できたものが評価されない状況はどうだろう。あるいは評価はされるけれど、たいしたことはないものはいっぱいある。それがトンデモ系かどうかは誰にもわからない。強いて言えば歴史だけがそれを判断するのだろう。